　３月が終わり４月に入った。生活、環境、思考、どれがと明確に答えることはできないが、新しい香りがする。仕方がない、そういう季節だ。新しい人生を進む人もいれば、再び同じ場所から再スタートする人もいる。変化の時期と言っていいだろう。

　変化を喜ばしく思う人もいれば、受け入れるのに時間がかかる人もいる。僕は圧倒的に後者である。人間関係、生活構成、どこをとっても一度安住の地を見つけるとそこから抜け出すことが嫌になる。若くして向上心を手放したわけではないが、常に変化を求める人間でもない。そんな人間にとって新しい香りがする４月は、どこか居心地が悪い。

　４月に入っていよいよ全国ツアーが始まった。今回のツアーは８都市15公演ということで多くの旅をする。旅ということは安住の地を一度離れるということ、そこからくる不安は計り知れない。今まで一度も行ったことがない、もしかしたらこの先行くこともない場所で、安心して眠ることはできるだろうか。常に目まぐるしく変わる景色や気候で、気がつかないうちに心が疲弊してしまうのではないか？　そんな不安が頭をよぎる。実際現地に行ってしまえば、楽しいしわが家のような顔で眠りにつけるのだが、出発前の不安はこの先も拭えないだろう。

　旅が多くなるということは、当然移動も増える。新幹線や飛行機で毎週のように日本を旅している。子供の頃から自分の世界に没頭してあまり外の世界を見ていなかった自分にとって、とてもおもしろい。同じ日本でもわずかに街並みに変化がある。同じものが違うものに見えてくる。不思議かもしれないが、それを感じると旅をしている実感が湧いてくる。そんな旅への期待を胸に、僕は新幹線に乗った。

　最近、新幹線での移動が増えて、少しずつ時間の使い方も上手くなった気がする。到着時間から逆算して程よく睡眠を取れる時間を確保しつつ、適度に食事をする。それがベストだと僕は結論づけた。移動中に何かをすることで、この先起こりうるどこかの時間をこちらに回して得をしているような気分になるが、移動中の揺れる環境では作業も本来のスピードで行えているか怪しい部分もある。ならばいっそ、眠ったほうが体にも心にもいいだろうと考えた。

　そんな自分にとって完璧なプランニングと共に朝食を食べた。朝食は１日の活動に必要なエネルギーの基盤と教わったので、しっかり食べる。しかしこの後の睡眠に支障が出ないように程よい量にとどめる。ただ食べればいいとは思わない。

　食事も終わり、いよいよお楽しみの睡眠の時間だ。座りながら睡眠をとることのある自分にとって、最も懸念すべきポイントは首だ。脱力して眠るときに顔をどこに預ければいいのか分からず、起きたら首を痛めていることが多々あるので僕はネックピローを持ち歩くようにした。ネックピローを首に巻き、水を一口飲めば準備完了。眠りの世界へ飛び立とうとしたそのとき、僕はこれまで感じたことのない違和感を感じた。

　そう、座席シートを倒すのを忘れていた。これは重大な問題である。どれだけ首の安全を確保しようとも、背もたれが垂直なままでは睡眠をとる姿勢に違和感が出てしまう。しかも自分はカバンを座席の前に置いてしまったがために、足場もこの上なく狭い。気がついたら、ベストな睡眠をとるとはお世辞にも言えない状況に追い込まれていた。ただ座席を倒せばいい、口で言えば簡単だが現実はまるで違う。

　すでに出発から１時間弱が経過し、出発時には後ろから人の気配も確認済み。これは実に厄介だ。ここで後ろの人にシートを倒していいか話しかけようとすると、大まかに二つの可能性が考えられる。相手が快く応じてくれるケース。そして相手が眠ってしまっているケース。大抵この二つのどちらかである。

　これらの可能性を考慮しつつ話しかけようとしたが、とあることがひっかかった。今は出発から１時間弱が経過している。ここで今さら話しかけられて、相手はなにを思うだろうか。

「えっ、今さら？　もうシート倒してこないと思って机広げちゃったんだけど……」

「この人、１時間弱ずっと話しかけるの躊躇してたの？」

「集中して映画見てるのに、今さら話しかけるなよ」

　どれをとってもいい着地にならない気がする。それどころか、自分は後ろの相手が男性なのか女性なのか子どもなのかも分からない。もし気性が荒い人で自分が話しかけた途端気分を害した表情をされたら、安心して眠ることは不可能に近い。そんなことを考えていると、後ろを向いて相手が起きているか確認する気すら起きなくなってしまった。

ここでひとつ、禁断の手段が頭をよぎった。

「勝手にシートを倒したらどうなるだろうか」

　ここに自分は第三の選択肢を発見してしまった。急いでインターネットで検索をかける。なんと鉄道会社は、座席シートを倒す際後ろの人に声掛けをする必要があるか明確に定めてはいないようだ。つまりこの選択は、規則違反ではなくグレーゾーン。そう思うと悪魔のささやきが聞こえてくる。

　僕は改めて考えた。「規則や倫理が存在するからこそ人間は他の生き物と違う」という言葉をどこかで読んだことがある。思えば近年のセルフレジなど、人間が構築するシステムには、技術の発達と共にどこか性善説を感じるものがある。それは先代たちが築いてきた倫理観の象徴だ。その象徴を自分は崩してしまうかもしれない。自問自答を繰り返した結果、

僕は直角のきれいな角度で座ったまま、目的地に辿り着いた。

　目的地に着いて席を立つとき、一瞬ながら自分の後ろを眺めると、そこにはもう誰もいなかった。どこか途中の駅で降りていたのだろう。あーぁ、普通に後ろを確認すればよかったな。